お神輿の起源とは
普段は、特別気にする訳でもなく「お神輿」と呼んでいますが、神の輿(こし)と説明されても意味がわからない方は多いと思います。
多くの方が疑問に感じるのは「輿(こし)」についてではないでしょうか?
「輿(こし)」については「故実拾要」から見ていく事にしましょう。
挙行(かきゆく)を輿(こし)と言い、輦行(ひきゆく)を輦(くるま)という。
故実拾要
と故実拾要に記載があります。ここで疑問に感じる部分が「挙行(かきゆく)」の「かき(かく)」の部分だろうと思うので簡潔に補足すると
現代ではお神輿を「担ぐ」と言いますが、古くは肩だけでなく背中全体で担ぐときに「舁く(かく)」と言っていました。
お神輿は重いのでどうしても前かがみになり、肩だけでなく背中全体を上手に使い担ぐので使い分けられていたんですね。
本題から外れるので話を戻しますね。
神社の儀式や装飾の殆どは宮廷に倣っているので、宮廷の記録を丁寧に見ていく事が理解するのに適しています。
「輿(こし)」について最も古い文献は、「日本書紀」の垂仁天皇15年秋8月で、次の物語が初見です。
垂仁天皇が、宮女として丹波の国から美しき姉妹五女を召された。その眉目よき第一女の「日葉酢媛命」を立てて皇后となし給い、第二女以下三女を妃として留められた。然るに、第五女の「竹野媛」は容姿甚だ醜きため本国に還されることになった。竹野媛いたく羞じて、帰途「葛野(かずぬ)」で自ら「輿(こし)」から堕ちて死(まか)りぬ」
日本書紀
これが最も古い「輿(こし)」について書かれた記録です。
他にも京都御所火災の出来事を記録した鎌倉幕府の日記である「吾妻鏡」承久元年7月にも記載が見られます。
応神天皇の御輿・・・・往代装束霊物等悉く以て灰燼となる
吾妻鏡
第15代応神天皇の御輿が消失したと書いてあることから応神天皇が御輿を使用されていたことがわかります。
また、これらの記録から天皇陛下の乗り物としての輿や御輿の記載はあるものの、まだ「神輿」と記載されていなかった事もわかります。
では、いったいいつごろから「神輿」として神事に使われるようになったのか?という疑問が残ります。
結論を言ってしまうと、奈良朝の孝謙天皇の時代、天平勝宝元年10月に奈良の東大寺大仏殿が建立され、その鎮守として宇佐八幡神をお迎えするにあたり「神輿」を用いたことが「続日本紀」に記載されているのが初見になります。
神社ではお神輿が出御する神幸祭と呼ばれる神事が執行されていて、詳細な時期に関しては言い伝えが残っているところもありますが、多くは判然としていません。
ただ、神幸の儀が天皇行幸の儀に準じてよいですよ、と定まったのが後三条天皇の御代なので、概ね平安中期頃に整備されたと考えられています。
奈良朝に起きた神輿が平安朝に整備されていたことを示す文献としては
今宮、紫野(京都)に在り・・・神輿の上、鳳凰の羽翼の下、延暦4年5月9日の字あり。
雍州府志
神輿御造進之事 第50代桓武天皇延暦10年云々
日吉山王新記
があり、これらによって平安初期から行われていたことがわかります。
男山八幡宮のなぎの花のみこし
枕草子
と、枕草子にあることから、平安中期頃には相当盛んに行われていて、江戸時代になって更に発達し今日に伝わっているとされています。
お神輿の三様式とは
お神輿の様式は、大きく分けて「四角造」「六角造」「お宮造」の3種類に分けられます。
その事実を明らかにする、よりどころとなるのが「年中行事絵巻」です。
この絵巻は後三条天皇の次代である白河天皇が当時の絵巻預の光長に勅命され、宮廷内外の実状を描かせたものです。
計60巻の大絵巻でしたが実物は火災で焼失してしまい、それを模写した16巻だけ遺っています。
この16巻の中の第6巻に祇園社の祭礼行列図があり、神輿が元気いっぱいに三基担ぎ出されています。
いずれも「四角造」で前後二基の屋上に大鳥が据えられていて、中央の神輿には葱花(宝珠)が据えられています。
どのお神輿も四隅に蕨手(わらびて)があり、鈴縄(すずなわ)が張ってあります。
第12巻には、春日社の祭礼行列図があり、神輿は四基で第一、第二、第四位が「お宮造」です。
切妻造で屋根の前後に千木(ちぎ)が交差しているのがわかります。
第三位神輿は「六角造」で屋上に大鳥が据えられ蕨手や鈴縄を張ってあるのが描かれています。
これらのことから、既に平安中期にはお神輿の三様式が整っていた事がわかり、お神輿ファンにとって見逃す事の出来ない貴重な史料です。
四角造について
屋根が四角形で天皇陛下の乗りものである「鳳輦(ほうれん)」「葱花輦(そうかれん)」になぞらえ屋上に鳳凰か鵜鳥が据えられます。
お神輿に用いられる鳥は次の三種類があります。
①鳳凰(ほうおう)
②鵜鳥(うのとり)
③鸞鳥(らんちょう)
三種類の鳥は、両翼を左右にひろげていて似ていますが、見分け方のポイントは次の通りです。
①鳳凰・・・一度下がった尾羽根が末端ではね上がっている。
②鵜鳥・・・尾羽根が上方に反って左右にひろがっている。 ③鸞鳥・・・尾羽根の数が少なく全体が小形で蕨手の上に据えられている |
屋上には鳥の代わりに葱花(宝珠)を据えているお神輿もあります。これは決まっているわけではありませんが、「男性の神様だと鳥、女性の神様だと葱花」にするも言われています。
八角造について
屋根が八角形(又は六角形)のお神輿です。これは高御座(たかみくら)になぞらえたとされています。
高御座は、天皇陛下の乗り物ではなく即位式で用いられる天皇陛下が着座される御構えの事です。
屋根が八角形で屋上に金色の大鳳凰が据えられ、八隅に蕨手があります。
六角形のお神輿はこの八角形が変化したとされています。
お宮造について
切妻屋根に千木(ちぎ)、鰹木を置いたお宮の形をしたお神輿です。
これは、形状からも想像できるように、社殿をなぞらえたもので、お宮造には蕨手はありません。
以上がお神輿の代表的な三様式で、後代になり仏教の影響を受け変化もしましたが、大体の構造にはあまり変化していません。
個人的におススメな著名お神輿
現在も遺っているお神輿で著名なお神輿はたくさんありますが、その中でも主な著名お神輿を独断と偏見で紹介いたします。
四角造
●誉田八幡宮(大阪府南河内郡)・・・社伝によると源頼朝が寄進したと伝わっています。様式からも鎌倉期のお神輿であるとされています。
●鞆淵八幡宮(和歌山県那賀郡)・・・安貞2年のお神輿とされています。
●日光二荒山神社(栃木県日光市)・・・北朝年号の慶応元年の在銘とされています。
●長田神社(兵庫県神戸市)・・・室町期のお神輿で、鎌倉期より屋根が厚く蕨手が大きく屋上に鸞鳥が据えてあります。近代的な感じがします。
●熊野速玉大社(和歌山県新宮市)・・・足利義満が寄進したお神輿です。
●大山祇神社(愛媛県今治市)・・・蕨手が大きい。三基中一基に鳳凰、他の二基に葱花が据えられています。
●北野天満宮(京都府京都市)・・鳳凰と葱花の両様あります。
八角造・お宮造
●伏見稲荷大社(京都府京都市)・・・全部で五基あり、第三位が八角造の鳳凰で、その他の四基は全てお宮造です。
特殊なお神輿
●熊野那智大社(和歌山県東牟婁郡)・・・那智火祭りの通称で知られる熊野那智大社の例祭(7月14日)は、正式には扇祭、または扇会式法会と言われており扇神輿が第一扇から第十二扇まで12体でます。熊野十二所権現を象徴しているとされています。
まとめ
お神輿は、木造黒漆塗り(一部朱塗りもあり)で屋根は反り、張り金紋(社紋又は巴紋)を置き頂上に鳳凰や葱花を据え、屋根の隅に蕨手を付け上に鸞鳥をおく(お宮造に蕨手はない)様式が多いです。
お神輿と一口に言っても、全国を巡るとさまざまな伝承が残っていて、今回は紹介しませんでしたが野菜や時花で飾り付けたものまであります。
時代背景を想い浮かべながらお神輿を見ているだけで非常に楽しくなるもので、注意してお神輿を見てみると新たな発見があり嬉しくなりますね。